「おやすみプンプン」は浅野いにおが2007年からヤングサンデーで連載(2008年のヤンサン休刊に伴いその後はビックコミックスピリッツに移った)された全13巻の作品で、どこにでも居るような男の子、プンプンの半生を描いた物語です。
この作品はよく「鬱漫画」として紹介される事が多いです。
確かにファムファタル・自意識・人間関係・生死・愛、といった重く苦しいテーマを取り扱っている為、読んでいて苦しくなってしまう場面というのは往々にしてありますし、途中で挟まれるペガサス合唱団の話なんかも意味不明で「なんのこっちゃ」といったところで…
よくわかんないけど鬱漫画って感じ…と、作品を読み終えて評価している人は多いのではないでしょうか。
しかし、この物語には様々な所に意図や伏線があり、それを全て理解した時に初めて「おやすみプンプン」という作品を楽しめるのではないかと思っています。
自己満足ではありますが、おやすみプンプンの伏線の解説と考察を書いてみようと思います。このブログを読んで「もう一度おやすみプンプンを読んでみよう」と思って頂ければ幸いです。本当に、自分で勝手に作品に対して盛り上がっているだけですが…
ここからは、おやすみプンプンを読んだ前提で話を進めるので、まだ読んだことの無い人は是非ご一読下さい。
追記
拝読しました。僕の実力不足で完璧とは言えない漫画ですが、こちらの意図を汲み取ってここまで読み解いてもらったのは初めてです。ありがとうございます!
— 浅野いにお/Inio Asano (@asano_inio) 2019年9月29日
なんと浅野いにお先生本人からこの考察に関してご連絡を頂きました。本当に光栄です…
「おやすみプンプン」とは何だったのか
大前提として「おやすみプンプン」とは何だったのか、という所から考察していきます。
結論から言うと、私達が読んでいる「おやすみプンプン」とは南条幸がプンプンの話を元に描いた漫画作品です。作者は浅野いにおであり、南条幸なんです。
おやすみプンプンは、プンプンの半生を描いた作品ではなく、プンプンの半生を元に南条が描いた作品、という視点で今後考察を進めていきます。
いくつか根拠を挙げていきます。
- 幼少期編で、プンプン達が工場の火事に巻き込まれた時、屋上でプンプンを見つめる謎のシルエットと遭遇しました(14話)。これは141話で、大人になったプンプンであった事が分かります。これはタイムリープの様なものではなく、ただただ将来のプンプンが工場で過去の自分を思い返して、その後自殺を図る事への伏線になっています。自分の(そして愛子ちゃんとの)運命は幼少期の頃から決まっていた、という事を示唆するという意味合いもあると考えられます。現実にはない、その当時は知る由もない未来の自分のシルエットがプンプン少年に見えていた事から、前提としてプンプンの世界は「フィクションの世界(誰かによって描かれた世界)」であると考える事ができます。それは、南條が描いた漫画の世界だから、という所で説明が出来るのではないでしょうか。
- おやすみプンプン1巻の冒頭の書き出しは、プンプンが高校生の時に南条のスケッチブックに書いた文と同じです(63話)。その後、プンプンがスケッチブックに書いた物語を南条幸が評価し、プンプンを原作として漫画を書こう、となって南条とプンプンの関係が進んでいく訳です。このプンプンの創作文を知っているのはプンプンと南条だけで、南条がこの創作文を知っているという事実が、おやすみプンプンの作者が南条幸である事の裏付けになります。
- 南条は出版社に読切を認められ、1~2巻で短期連載を持ちかけられます。その時に描いた漫画が125話に僅かに写っていますが、それは浅野いにおのソラニンと全く同じ作品でした。浅野いにおは2005年に「アルファルファ」という読切をサンデーGXに掲載され、その後ヤングサンデーでソラニン(全2巻)の連載を始めます。このことから、南条幸≒浅野いにおであり、おやすみプンプンも南条幸の作品とする考察ができます。
- プンプンがデフォルメされたキャラクターとして登場するのが本作の特徴ですが、そのキャラクターは144話で見る三村が南条のメモにした落書きと同じです。南条はこのキャラが新作の主人公だと冗談を言います。その設定がそのまま使用されたのだと思われます。また、南条がプンプンの苦しい場面や愛子ちゃんとの恋愛を生々しく描きたくなかった為にこのデフォルメされたキャラクターを使った可能性もあります。(浅野いにおはインタビューの中で「顔かたちが誰にも似ていないがゆえに、逆に誰もが感情移入できる、自由に表情を想像できる。顔がリアルに描かれることがないからこそ、プンプンの言動を正面から見つめ続けることができる」としています。)
- 作中、モノローグでプンプンの思考が表現されるのがおやすみプンプンの大きな特徴ですが、143話、廃工場でプンプンが南条に起こされるシーンでモノローグの一人称が「私」に変わり、そのモノローグは南条のものであったことが分かります。ナレーションが自意識の様なものであったのにも関わらず、プンプンの呼称が「僕」ではなく「プンプン」であったのはこの為でした。ここからプンプンの幼少期からずっとこの物語を語っていたのは南条だった、という事が分かります。
- ペガサス合唱団の存在は、明らかにプンプンと南条の世界に依存しています。これについては後程考察を述べていきます。
プンプンの人生を南条が描いたものがおやすみプンプンである、ということが成立するには、「漫画の中に南条が知りえない情報があってはならない」必要があります。
雄一編の話などはプンプンの話す情報だけでは描けないものかとは思いますが、南条は雄一ともプンプンのパパとも会っており、深い話もしている為、その後本人達から話を聞いたことは十分に考えられます。
その他に、どうしてもこの情報は南条幸では知りえないという事実は見られないため、この説の整合性は取れていると思います。
そしてこの事から、どうしてもプンプンや南条が知りえないであろう物語は、南条の作ったフィクションである、と考えることが出来ます。
おやすみプンプンはプンプンのノンフィクションの人生を元に南条幸が作ったフィクションの話、という視点を持つと、様々な所に説明がついてきます。
例えば、清水には「うんこ神」が見えるという設定があり、実際にプンプンの世界に清水にだけ見えるうんこ神というものが存在しています。あれってなんなの…?と思う方が多いと思います。
正直「清水の妄想」と言えばそれまでですが、あえて理由をつけて説明するならば、「プンプンが過去を語る時に『清水という小学校の時の友達にはうんこ神が見えた』という旨の話を南条にして、南条がそれをそのまま描いた」ということになります。
うんこ神が現実世界には存在しえないもので、プンプンの世界に存在する以上、やはりプンプンの世界はフィクションということになります。
この視点は、おやすみプンプン最大の謎である「ペガサス合唱団」や「黒点」の話に繋がってきます。
その前に、何故南条はおやすみプンプンを描いたのか、という部分に触れていきたいと思います。
南条がおやすみプンプンを描いた目的は何か
では、何故南条はプンプンの半生を漫画にしたのか、という部分を考察していきたいと思います。
一言で表すなら、プンプンを自分のものにする為であると考えられます。
プンプンの運命の女性は、言うまでもなく田中愛子でした。堕胎手術を受ける時に一緒に病院へ行くという約束を破り、愛子ちゃんと共にタクシーで南条の前を通り抜けるシーンは、幼い頃に愛子ちゃんとの約束を破ったシーンと重なり、やはり運命の女性は愛子ちゃんだったんだということを決定付けさせます。
しかし南条はプンプンの過去を知り、エゴと理解しつつも「プンプンは私が守らなきゃ」と決意し、プンプンを探し出します。
小学生の頃にプンプンと南条はお互いを認識して出会っていなかったので、廃工場という場所は共通の認識で存在しているものではありませんでした。
それなのに行方不明のプンプンをあのタイミングで南条が見つけるのは、奇跡といえば奇跡ですが、明らかに不自然です。
(南条もプンプンも廃工場からみる天の川が綺麗な事を知っていた為、たまたま同時にその場であった可能性もありますが、その後の「プンプン 起きなよ」のセリフが、自殺未遂をした恋人を見つけた割に落ち着いてる事や、モノローグで「…なんてことを私は許しませんでした」と語ること、運命の女性は愛子ちゃんであるため偶然の遭遇は考えにくい事、などから、南条による人為的な遭遇の可能性の方が高い、という考えです)
プンプンの運命の女性が死に、「おやすみ」と言ったプンプンの自殺を阻止して、プンプンの余生の様なものを貰う、という南条にとってのハッピーエンドに向けて、「おやすみプンプン」は作られていたのだと考えられます。
プンプンは145話で愛子ちゃんと夢で対話してる中で、自分のことが誰の記憶からもいなくなればいい、と言います。しかし、それは南条の願っている世界ではない為、南條はプンプンを漫画にするという真逆の行為でプンプンを縛って飼い慣らします。
これが浅野いにおがcakesのインタビューで語った「1番惨めなトゥルーエンド」です。
(もうひとつのエンドとして線路で轢かれそうな南条の子供を助けて身代わりに死ぬ、というものを用意していたらしいですが、「スッキリするから」という理由でそのエンドを止めたそうです。)
飼い慣らす、という関係性は雄一と翠の関係と共通しています。
自意識に支配され、特別な女性に人生を掻き乱され、その女性と決別し自殺未遂をした後に、それを別の女性に止められ飼い慣らされる。雄一とプンプンの人生はとても似ており、プンプンが唯一頼れたおじさんとプンプンは同じ宿命を辿った、という所に繋がっていきます。
また、南条がおやすみプンプンを描いたのは、純粋に漫画家として満足いくものが描きたかったからでもあると考えられます。作中で南条は「あたしが描きたいものってのはさぁ…感動とか泣きとかその場の甘やかしなんかじゃなくて、そいつの人生そのものに影響したいの。現実を忘れさせるための漫画じゃなくて!!現実と戦うための漫画なの!!」と話しており、そのアンサーが「おやすみプンプン」であると思われます。
では誰が現実と戦うのか。それは読者はもちろんのこと、プンプンでもあります。
運命の女性が死んだプンプンが、その現実と戦って受け入れさせ、それでも生きていくための漫画を南条が描いていく、ということも考えられます。
次に、この作品の重要な言葉である「おやすみ」「おはよう」について考察していきます。
「おやすみプンプン」のタイトルの意味とは
おやすみプンプンの中で重要な言葉になってくるのが「おやすみ」と「おはよう」です。
特別な「おやすみ」と「おはよう」についてまとめてみます。
プンプンが愛子ちゃんのお母さんを殺す決意をした時の「おはよう」
これは、プンプンの自意識がプンプンに対して言った「おはよう」です。(自意識というのは実写のおじさん、神様の事です。愛子ちゃんとの逃避行中、鏡に移る自分の顔が神様になっている事に気付き、プンプンは今まで話していた神様が自意識という事に気付きます。)
それまでのプンプンは鬱屈とした性格で、何に対しても控えめで、周りに流される人間でした。そのプンプンが「愛する人の為に人を殺すか否か」という選択を(自己防衛的だったといえど)強いられ、その中で「殺す」という選択をした。
この時に初めて自己が「目覚めた」のです。そして、自分の運命的な時間が始まったのです。
だから、「おはよう」なんだと考えられます。
プンプンが廃工場で人生を終わらせようとして言った「おやすみ」
運命の女性を失い、自意識とも闘い、疲れ果てたプンプンは「お前が死ね」と自意識にナイフを突き立てて自殺を測ります。失血して意識が遠のく中でプンプンは「おやすみ」と言いました。
(余談ですがこの時に片眼を刺したのは、その眼が愛子ちゃんに潰される筈だった眼だった為だと思われます。)
この「おやすみ」は、先述した「おはよう」で目覚めてしまった自分の宿命とも言える時間を終え、生きる目的を失ってしまった自分への別れの意味があると考えられます。
しかし、この「おやすみ」は南条によって遮られ、プンプンは眠る事が出来ませんでした。
プンプンにとっての「1番惨めなトゥルーエンド」、南条のエゴの世界のスタートです。
「おやすみプンプン」というタイトルを付けたのが南条なら、「プンプンに『おやすみ』を言わせてあげられるのは自分だけだ」という意図もあるのかも知れません。考えすぎかとは思いますが。
ペガサス合唱団とは何だったのか
おやすみプンプンの中で一番読者が「???」となるのが「ペガサス合唱団」に関する話かと思います。
愛子ちゃんのお母さんが狂信していたカルト宗教の教祖の次男が率いるカルト集団で、アカシックレコードとかラヴァーズとか黒点とかよく分からないことを言ったり、よく分からない特殊な能力を持っていたりと...謎の多い存在です。
ちなみに意外と気づかれてませんが幼少期プンプンの同級生の沼田裕美も「まんこ姫」としてペガサス合唱団に入団しています。まんこ姫て…
ペガサス合唱団、本当に謎の存在ではあるのですが、自分なりに彼らの存在と位置づけについて考察してみようと思います。
まず、大前提としておきたいのが、先述した「この物語は南条がプンプンの半生を元に作ったもので、どうしてもプンプンや南条が知りえないであろう部分は、南条の作ったフィクションである」という話です。
そしてその上で、ペガサス合唱団は「南条が作り出したフィクションのもの」であるのではないかと考えます。
いくつか考察を述べていきます。
- ペガサス合唱団に多く関わるのは、清水と関です。おやすみプンプンは、プンプンを軸として物語があり、登場人物は全てプンプンと関わっていきますが、時折「清水と関」を軸とした話が出てきます。そして清水と関とプンプンは連絡を取っていなかったので、この「清水と関軸の話」は南条幸には知りえなかった話、すなわち南条のフィクションである可能性があります。そうなると、ペガサス合唱団もフィクションのものであると考えることができます。
- 106,107話でプンプンと愛子ちゃんが本当の意味で再会した瞬間、ペガサスのメガネが割れてペガサスは倒れ込みます。ペガサス合唱団が調和のために歌っていた「翼をください」はプンプンと愛子ちゃんの思い出の歌でした。蟹江をデートに誘う時にもこの歌を流しています。また、71話で「2年後のその瞬間(七夕)までついてきて欲しい」との発言もあります。この様に、ペガサスの行動はプンプンの人生の重要な瞬間、それも恋愛に関わる瞬間に焦点を置いています。何より71話でペガサスの言う2年後の七夕は、プンプンが廃工場で自殺を試みて、南条に捕まえられる日です。その直前の140話、ペガサスは「我々の勝利だ」と発言しています。この事から、ペガサスはプンプンを中心とした世界に存在する存在で、その根底には南条の存在がある、ということが考えられます。
- ペガサス合唱団では世界の秩序を乱すものを「黒点」としています。純粋なる乳の川への黒い染み、とペガサスは表現しました。後述しますが乳の川は天の川を指し、天の川はプンプンの世界を形作るものなので、ペガサスはプンプンの世界の為に動く存在と言えます。そしてなにより、作中で唯一具体的な「黒点」としてペガサスが危害を加えた(115話)のは、不動産屋の社長である宍戸に冤罪を着せたババアでした。南条が憎んで憎んで、それでも裁けなかった人物です(96,97話)。ペガサスを通して、南条がババアに復讐したと考えることが出来ます。
- 75話でペガサスは三村に合唱団への勧誘をしますが、これは結果として三村のバイトへの遅刻を防いだだけのものになりました。ペガサスは作者南条の意思で三村を助けた、という可能性があります。
ペガサス合唱団の存在を通して、人は何か傍から見たら訳の分からないものを狂信して縋って生きているということを表現しつつ、この世界がプンプンと南条中心に回っていることを密かに暗示していたのではないでしょうか。
正直、ペガサス合唱団の言う理論は読み飛ばしてもなんら問題は無いものではあるのですが、このように考察すると、プンプンとペガサス合唱団の関係性は無かったとは言えません。
読み飛ばしていた方は、是非この考察を踏まえておやすみプンプンをもう一度読んでみて頂ければ幸いです。
天体と物語について
考察というか豆知識になってきますが、隠れた設定として、おやすみプンプンと天体は密接に関係している、というお話も書こうと思います。
1話でプンプンはプンプンのパパに天体望遠鏡を貰い、夏の大三角形の話をしてもらいます。
有名な話ですが、プンプン・田中愛子・南条幸は夏の大三角形を構成するデネブ・アルタイル・ベガに準えた三角関係を形成しています。
プンプンがアルタイル。アルタイルは牽牛星、そして彦星と呼ばれます。愛子ちゃんのお母さんを殺した後にプンプンの顔に生えた角は牛の角であり、プンプンが愛子ちゃんにとっての彦星(牽牛の和名)になったからだと考えられます。
愛子ちゃんがベガ。ベガは織姫星として知られています。
アルタイルとベガは天の川を境に遮られており、ここから七夕伝説は生まれています。
そして南条がデネブ。デネブははくちょう座の最も明るい恒星として知られています。
南条は元々容姿が悪く、整形で今の顔を手に入れました。その事を作中で蟹江が「南条はハクチョウ。醜いアヒルの子の成れの果て」と揶揄しています(82話)。
ここで南条とデネブが繋がります。
作中で七夕や天の川、綺麗な夜空が出てくることの背景に、そういった設定がある事を知るとより一層おやすみプンプンを深く読めます。
ラストシーンの晴見はなんだったのか
ラストシーンについての考え方は人それぞれかとは思いますが、せっかくおやすみプンプンについて記事を書いているので、自分なりのラストシーンの考察について書こうと思います。
私は、南条幸が描く「おやすみプンプン」は143話で終了し、そこからの144話〜146話はプンプンのリアル世界の話が掲載されているのだと考えています。根拠を述べます。
- 南条にとってプンプンを捕まえる事がゴールであり、143話最後の「君はあたしだけのもの」のセリフで全てが完結する為。
- 145話のプンプンの愛子ちゃんへの想いの独白は南条にとって不都合な物である上、プンプンが南条にそれを伝える道理が無い為。
- 144話で書かれるプンプンが人間の顔である為。唯一プンプンの顔が描かれた場面だが、南条が漫画を作る上でのコンセプトはプンプンをヒヨコで描くことであるから、144話は南条が描いたものでは無いと考えられる。南条がプンプンの元になるヒヨコの落書きをみせており、プンプンの作品が作られる前の世界であることが分かる。
- 晴海の世界線は南条の知りえない世界線である為。
これらの事から、最後の3話はプンプンのリアル世界の話だと考えられます。そう考察すると最終話のプンプンの言動は南条に縛られていないプンプン自身の言動ということが分かり、それらに味が出てきます。
最終話は突然ハルミンの主観で物語が始まります。当然ですがプンプン以外の人間にも、濃密な人生があった訳で、ハルミンも立派な大人になっていました。
ハルミンはプンプンとは全く真逆の、安泰で満たされた生活を送っているようで、その事に疑問や焦りを感じ、「人を殺さなければ」なんて考えています。
そんなハルミンから見た客観的なプンプンは、周りに沢山の素敵な仲間が居る、普通の人間に見えた様でした。
最後の最後、ハルミンのクラスに転校生が来て男の子が一目惚れする(プンプン1話と同じ状況が生まれる)事も含め、この最終話のエピソードは、「プンプンはどこにでも存在しうる」という事を示唆しているのではないでしょうか。
プンプンからしたら1番惨めなトゥルーエンドかもしれなくても、客観的には幸せそうに見えて、その生活はこれからも続いていく。色んな人に色んな人生があって、混ざりあったり合わなかったりする、という所で、この話は終わるんだな、と私は結論付けました。
最後に
サブカル鬱漫画として有名なおやすみプンプンですが、革命的で、人の心に残り、考えさせられる、という所で私は純粋にこの漫画を名作だと評価しています。
私怨ですが、パラパラとこの作品を読んで「おやすみプンプンめっちゃ鬱になる〜でもヤバい〜まじ好き〜」って言ってる性欲マッシュ共が嫌いで嫌いで(もっと言えば大してそういう人達と変わらないのにそういう事を思っちゃう自分も嫌いで)、「この作品を色んな人に深く読んでもらいたいな」「ちゃんとこの作品を整理してみたいな」と、おやすみプンプンを読み直した時に思ったので自分なりの考察をまとめてみた次第でした。
おやすみプンプンが大好きな人も、何となく良かったな、という人も、よく分からなかったな、という人も、もし私の記事に出会ってくれたのでしたら、ひとつの縁ということで、私なりの考察を楽しんで頂けたらと思います。
南条の言葉を借りて、この漫画は「鬱漫画」ではなく「現実と戦うための漫画」だと思いますので…
何かご意見ありましたら頂けると嬉しいです。
ここまで読んで下さってありがとうございました。